「アジアに立ちて」 岡田晃三さん著・三重県松坂市在住(一九九五年自費出版)
昨年秋、静岡県に住む弟史朗から、こんな本が寄せられました。「セレベスのことも書いているから、参考に読まないか」と言うのです。弟は定年退職後、ジャイカ(海外援助団体)・シルバーボランテイアにより、モン
ゴル、中国、マレーシア、パキスタンなどに赴き、日本語教師をしています。著者も専門は違うけれど、同じルートでアジア各地で工業技術指導をしている方です。読みました。参考どころか、敗戦から六十年近く経って、私の知らなかった戦場が身近にあって、そこに多くの少年達が駆り出され、敗戦後は組織の三分の一が「BC
級戦争犯罪人裁判」被告として収監、処罰されていたのです。
アジアに立ちて
以下『』内は著書からの引用、要約です。
『一九四三年(昭和十八年)秋、東京の興亜専門学校(現アジア大学)に、海軍省から同校インドネシア語科学生五十名を、海軍軍属として派遣するよう要請があり、二年生五十名が学業半ばに派遣された。
出発から一月程たって、彼らの乗った船は、フィリピンとインドネシアの海域の接する辺りで、アメリカ潜水艦の攻撃を受け、四十七名が沈没死したと連絡があった。
(註・四三年四月二十三日、客船鎌倉丸は、夜半パナイ島沖で魚雷攻撃を受け沈没、 便乗していた花機関第二陣=前記五十名=も遭難、救助されたのは浜田英雄さん、日高さん、加藤さんと僅か三人でした。このつまずきにより花機関の当初計画が実行できなくなったといいます。花機関員の遭難は、鎌倉丸の外に萬光丸と言う船でもあった模様です・永江)
翌一九四四年(昭和十九年)冬休みが終わる頃、前記遭難第二陣の補充として再 び学生五十名を派遣するよう学校に要請があり、半ば強制的に一年生五十人が派遣されることになった。四四年(昭和十九年)二月、一年生五十名は第二永洋丸(五千ト
ン)に乗船、雪の下関を出帆した。著者は満十八歳一ケ月だった。シンガポール(昭南島と言った)を経て三月下旬‘インドネシア・スラバヤに到着した。
彼らはそこで「花機関」(別名吉住隊)に組み込まれた。任務はインドネシア語の 通訳、治安・諜報活動、そしてインドネシアの独立の支援が主なものだった。「花機関」は一九四三年(昭和十八年)三月から活動が始まった。本部は当初はセレ
ベス・マカッサルにあり、後にジャワ・スラバヤ港に移った。機関員配置先は東はティモール、西ニューギニア、小スンダ列島、ハルマヘラ、アンボン、セレベス。ジャワ、ボルネオと散らばっていた。(註・四四年=昭和十九年四月一日、花機関は解散した。機関員は各地区警備隊所属となった。ボルネオでは特警隊特務班として任務継続、セレベス、セラム関係も特警
隊所属となったが、一部は民間商社に入った。高間良平記・赤道標より)
四月下旬、五十人の隊員は、前記各地に派遣されることとなった。
マカッサルの夕日
著者は二十名の同僚と共にマカッサルに渡る。ここで二、三人づつ組みになって各任地に出発、五月になり残ったH、M、T君と共に北セレベス・メナドに派遣ときまった。マカッサル滞在中、歌手の藤山一郎氏に会った楽しい思い出がある。メナド到着は四四年(昭和十九年)五月二十三日(旧海軍記念日)だった。
花機関の一年余
(原文のまま・見出しは永江)
『私は、マナドから西に五百q離れた港街バレレ(Paleleh 中央スラウェシ北端で北スラウェシとの州境に近いところ -編集部注-)という田舎町へ赴任するよう命令が出た。六月中旬、単身着任、ここで敗戦後の四五年八月下旬まで仕事をすることになった。
日本を出てから約五ケ月、全行程七千キロを超える長い長い旅であった。おそらく 同僚五十人中最後に任地に着いた一人であったのではないだろうか。当時、満十八歳の青年の私は、感受性豊かであった。任地に着くと土地の風物にも馴れ、だんだんと楽しく日を送ることができるようになった。パレレーは二千人くら
いの小さな港町である。毎日のように訪ねた先はプロテスタント教会牧師の家、小学 校の校長先生の家、そしてドクターの家などであった。牧師の話は、私にとって初めて聞く別の世界の話だった。日本には八百万(やおよ
ろず)の神があるという私に対して、牧師は神はただ一人であると説いた。彼はいつも良き師であり、楽しい話し相手であった。
この牧師に出会ったことで、私の人生は 大きく転換したのであった。校長先生の家には可愛らしい十歳前後の男の子がいて、私によくなついていた。私は彼らの日本語の先生であり、また私にしても彼らは程良い遊び相手で、インドネシア語の先生でもあった。
校長先生の奥さんは私を二人の子供と同じように思っていたのか、三日も家を訪ねないと心配して、子供を来させたりしたものであった。この家族は私にインドネシア
民謡の、ブンガワン・ソロやノナ・マニスなどを教えてくれた。今もこの歌を歌うとき、あの家族の顔が目に浮かんで来る。
ドクターの家には、私とちょうど同じ年頃のアンナという涼しげな目をした美しい娘さんがいて、家族ぐるみで私を可愛がってくれた。毎夜のようにドクターの家を訪れ、夜の更けるまでトランプ遊びをして楽しんだのであった。ポーカーやセブン・ブリッジなど、ここで覚えたトランプ遊びが、敗戦後収容されたキャンプでパンや煙草
を稼ぐのに役立つことになった。
このように書くと戦時中は何も仕事をせず、現地の人の家を遊び歩いていたように 見えるが、私は主として任務の一つであるインドネシア独立のための工作に努めた。
とくに小学校(寺子屋のようなもの)の開設とインドネシア語そして日本語の普及に力を注いだ。 当時は、インドネシア全域では親日的なムードが大勢を占めていたが、所々に反
日的な運動も少なからず起こりつつあった。インドネシアの大衆は、三百年という長い期間の統治国だったオランダを追い出した日本に、最初の頃は感謝し協力もしていたが、自治権が与えられた後には独立に進
展するだろうと期待していたものの、一向にその気配がなかったからである。四四年後半には、これではオランダと同じじゃないかと、日本に対する信頼感が不信の念へ、特に知識人が変わっていった。
花機関の活動
インドネシア各地に分散していた私たち花期間員は、本部の指令も届かず、お互いに連絡もとれず、各自に勝手に独立運動に協力するか、弾圧か、それとも傍観か活動を大別すれば、諜報活動か、インドネシア独立運動支援かのいずれかに重点を
置いて仕事をしていたようだ。
戦争裁判
諜報活動に力を注いだ者と通訳の仕事をする機会の多かった隊員が、敗戦後、戦争 犯罪容疑者として受難の日にあうことになった。私たちの仲間も戦犯裁判にかけられ、数名の者が死刑に処され、あるいは獄死し、十名ほどの者が七年から二十五年の刑を受けることになった。
戦争というもの
戦争という悪魔の舞台で、インドネシア語を話すことができ、そのうえ権力を持った血気さかんな若者は、自分の意志によらず、悪魔の力に強いられ、心ならずも、人々を苦しめ、災難を及ぼすことになった。若者の中には戦争という怪物のなせる業の中に巻き込まれ、戦争が終わってからも、異国で非業の死を遂げた者、また長期間異境の獄舎につながれた者などがいる。そんな彼らの心情がいかなるものであったかと思いをはせるたびに、私の心は痛む。
私たちがもし平和の使者として、インドネシアに渡っていたら、土足であの楽園を 踏み荒らしまわるようなこともなかった。若しあの時代が現在のように平和な世の中であったなら、我々は普通の渡航者として、インドネシアを訪問していたであろうに。』
戦争が終わる
著者岡田さんは、田舎パルルーの一年三ケ月を地元住民と仲よく交流し、平穏に過ごし敗戦を迎えました。マナドに戻り、待っていたのはマナド刑務所でした。収容された者は花機関員、海軍特別警察隊、陸軍憲兵隊員の六十名で、刑務所の中ではオランダ兵、オランダ隷下のインドネシア(アンボン・マナド)兵から、言葉には云い尽くせない報復的苛酷な扱いを受けました。
彼等は日本本土へ捕虜として連行され、苛烈な労働、厳しい制裁、乏しい食糧事情、その他忌わしい体験を味わった連中だったのです。そんな報復を受けた時、岡田さんの心の支えになったのは、バルルーで息子のように可愛がってくれた牧師がいつも言っていた「朝の来ない夜はない。必ず希望の朝がくる」と言う言葉だったと言います。
次いで一同はモロタイ島アメリカ軍の収容所に移されました。そこから、花機関同僚三人がマナドに呼び戻され「BC級戦争犯罪裁判」を受けることになりました。先輩小林登喜次さんは死刑となり、大学からマナドまで一緒に赴任したTさんは刑期十五年、Hさんは七年の刑となってジャワで受刑しました。二人は五一年(昭和二十六年)対日講和条約締結の後、東京巣鴨拘置所に移されました。Hさんは帰国後一年ほどで社会復帰、Tさんはその後二年ほど収容されていた
が、ある程度行動の自由が許されていたようです。
マカッサルでは
敗戦後マカッサル郊外の収容所に拘留中脱出、オランダ軍兵舎を襲撃したとして、裁判にかけられ、四七年(昭和二二年)六月十九日、現地で銃殺刑に処せられたのは、機関員畑田実さん(二十四歳・山梨)金井清さん(群馬)池田末吉さん(佐丗保)(共に二十二歳・著者と大学同期生)でした。
花機関その後
著者岡田さんは、四一年(昭和二十一年)六月、一般居留民達と共に、無事和歌山県田辺港に帰国しました。初代機関長吉住留五郎氏は、敗戦後インドネシア独立戦に参加、四九年(昭和二十四年)スラバヤ郊外の戦闘中に戦病死し、インドネシア独立英雄墓地に葬られています。
「註記」
・機関員総員一一一名の内、二〇〇二年現在生存者は四十八名(内戦争犯罪人として服役した者八名)戦死・処(死)刑者十五名、戦後物故者四十八名(内戦争犯罪人として服役した人は七名)でした。
戦死、処刑者十五名、服役者十五名、計三十名、総員一一一人中、三人に一人の犠牲が出たことになります。
・インドネシア語を学び、少し話せただけの、十八歳の少年逹を対スパイ業務に就かせた。僅か百人の機関員が、広い地域に配置された。そこはオーストラリアに近く、アメ
リカの進攻した地域ともダブっています。歴史的に親オランダ色の強いアンボン、マナド地区があり、反日感情旺盛な華系人 の多い西ボルネオもありました。その上戦争の形勢は日増しに悪くなる、対スパイ業務は多くなる一方だったでしょう。切羽詰まって、海軍がやったこととは云え、大半二十歳前の少年達にむごい仕事を
求めたものです。
ボルネオ事情
岡田さんの紹介で、バリックパパンに駐在した元機関員群馬県在住田島良夫さんから、ボルネオ関係の資料をいただき、ポンテアナ事件について知識を得ました。戦争の末期ボルネオ東部、北部にオーストラリア・英軍が上陸、激しい戦闘があり、軍民共に大きな犠牲があったのを知りました。戦争中マカッサルのほとんどの民間人は、それを知らずに過ごしておりました。戦後ボルネオの戦犯裁判もそんなこともあって、苛烈になったのでしょう。
山で出会った少年
岡田さんの本で、花機関の存在を知り、改めて鮮明に思い出したことがあります。
敗戦に近い日、私はマロスの奥地、チャンバの山宿で、インドネシア滞在が長くないらしい年下の若者と一緒になりました。連れはインドネシア人だけらしい。声をかけたけれど、ニコっともしない、完全に黙殺されました。すごく緊張している。どこか私達と違う雰囲気の人でした。会社の華系駐在員は、私に「彼は・・・らしいですよ」こっそり耳打ちしました。そのひとときが、妙に長く今まで記憶に残って来たのです。「あの時感じた異様な雰囲気、やっぱり彼はその一員ではなかったか。そうだったとしたら、無事帰国できたのだろうか」
山崎軍太さんの受難
山崎軍太さんは、海軍軍政区の中心都市だったマカッサル市特別市長で、南興褐サ地駐在取締役を兼任しいました。一九一四年(大正三年)佐賀県伝習館中学を卒業されたと言いますから、私より三十歳近く上の方だったでしょう。
私達はマカッサルに上陸し、市長公邸にご挨拶に上がりましたが、きりっとした小柄な体格で、張りのあるお声の方でした。しかし、当時少年だった私の目からは、ご老体に見えましたが、今考えたらまだ五十歳そこそこの方だったのです。
山崎さんは戦後マカッサルで、BC戦犯裁判を受けました。受難の様子を「わたしの自叙伝」から関係分を拾いました。山崎さんは、大正六年長崎高商を卒業後、南洋貿易鰍ノ入社、間もなくセレベス島マナド支店に赴任、十年間マナド支店長として、貿易、運輸、拓殖、水産、鉱業、油脂、何でもこなし、やがて東京へ戻され、外国課長、大阪支店長、本社営業部長などを歴任の後、三四年(昭和九年)南貿鞄洋群島総括支店長として、パラオ島に赴任
していました。四一年(昭和十六年)十二月、太平洋戦争勃発とともに、南方攻略艦隊がパラオに入港、山崎さんは海軍の経済顧問として徴用が決定、直ちに乗船となり、フィリピン・ダバオを経由、マナドの敵前上陸に参加し、治安維持会結成に務め、次いでマカッサルに上陸、民心の安定を図る。後マカッサル特別市長に任命されました。 (中略)
戦いが終わって、居留民全員が本土へ引き揚げた後、山崎さんただ一人「巣鴨拘置所}に収容され、さらにオランダ船でマカッサル刑務所へ送られました。奇しくも、海軍方面司令官森中将と船の鉄板のデッキの上に枕を並べて、往時を語り、流転の身の上を憂いました。
刑務所は(私の住んでいたマロスの警察署もその一つに当てられていたようです)コンクリートの床に、アンペラを敷くのみの酷遇、身にはサルまただけの裸一貫、トイレは空き缶のみ。独房は高い所に小窓一つ、夕方になれば小窓からマラリア蚊の襲撃に遭うと言う残酷なものでした。
法廷に立つ日が来た。検事いわく「君は軍人として、司令官とともに、当地に君臨して云々」これに対し「私は民間人で、軍籍は無い」と言っても、容易に承認せず、これが私を収監した理由とわかり、思いあたる節があった。
市長公邸へ現地人代表を招待した時、華僑会長は「皇軍長官」と記した花環をくれたような次第で、一般に一時期はそう思う人も多かったのであろう。結局「不起訴、放免」となった。かかる苦汁を飲みながら、風邪一つ引かず帰還したのは、精神力や体力のお陰で、若い時期に剣道修業の賜物に他ならない。(後略)
・北セレベスの中心都市マナド(当時はメナド)戦時中市長となった柳井稔さんは、元南洋拓殖潟<iド支店長で、山崎さんと同様、軍と地元民の間に立って努力した方でした。しかし、柳井さんは戦犯裁判にかけられました。マカッサルとマナドのオランダに対する住民感情の違いが主な原因になったのではないかと思われます。
「軍政関係・上陸当時反日陰謀団処刑に立会い人としての責任」
判決は死刑 執行 四七・三・十七
「マカッサル俘虜収容所に関する事件」
収容所内の処遇について、海軍第二三特別根拠地(マカッサル)司令官として最高 責任者の責任を問われた「大杉守一海軍中将」は「死刑」となり、山崎さんと同じ船でマカッサルに連行され
た「森国造海軍中将」も同じ事件の関連責任を問われ「死刑」になりました。
大杉中将・死刑執行 四八・八
森 中将・死刑執行 四九・四・二二
「マカッサル俘虜収容所に関する事件」で起訴された者は三十一名、内死刑九名、無期刑四名でした。
マカッサル裁判についての証言(一部要約)
「南部セレベス連合国一般市民抑留所に於ける処遇不良に対する一般的行政監督責任」
・川尻二郎さん、西村静観さん 海軍司政官
共に 刑期十五年
[西村静観さんの証言]四七歳 徳島県
私は昭和十八年六月から二十年五月まで南セレベス・パレパレ分県監理官の職にあり、管内にあったセレベス島唯一の「連合国市民抑留所」(男子のみ六百八十余名収容)へ糧食医療の給与不充分及び抑留所職員の殴打、虐待行為を阻止しなかったと言う責任を問われたが、抑留所には専任の所長がおり、彼らは簡単な取調べの後釈放された。直接運営に当たった所長に罪がないなら、監督官たる私には当然罪はないと信じていた。その旨を主張したが聞き入れられなかった。よってサインを拒否、無署名のまま、
判決を受けたが、こんな例は私だけだろう。
「同抑留所医療関係不良の責任」
・曽我部武さん 海軍医師 刑期二十年
「同抑留所書記として抑留者の取り扱い不良」
・森正八郎さん 海軍書記 刑期二十年
判決日 四七・一〇・二五
「原住民刑務所における逃亡囚人を命令により処刑(求刑後自決した)」
求刑 死刑
・修多羅 浩 海軍警部
詳しい起訴内容、
@民政部法務課勤務中、逃亡囚人を殺害したこと
Aマロス警察署長在勤中流言飛語を行った容疑者を拷問、死に至らしめた
B囚人に対する虐待行為
囚人処分は上司の命によって行ったなどと弁明したが、聞き入れられず、四六年十月二日死刑が求刑され、判決を待たず十月四日自決した。(この方は私が駐在したマロスの警察署長でした。名前は忘れていましたが、顔は記憶があります。三十歳前後の方でした。警察署には一度訪れれたことがあります。私の処の支配人、ロウシャンリイが経済違反で捕まって、釈放を頼みに行ったのです。そこは塀が高く巡らされ、署員は全部武装し、そのなかに住んでいるようでしたので、小さな要塞のようだと思いました。)
「マカッサル特別警察隊員として勤務中、原住民の大量検挙取調べ中における、拷問虐待事件に関係する」
隊員十三名が起訴され、九名が死刑となる。
・妹尾繁一さん上等兵曹 特別警察隊員
徳島県出身 四十三歳 刑期二十年
「一、公判が終わり、トラックに乗る時、警備兵から背中を靴で四度蹴られた。
二、昭和二十一年九月一日から六日まで米一粒も支給されなかった。それで自分で作っていた野菜を水煮して飢えをしのいだ。あまりのことに警備兵の一人が見兼ねて私達の衣類を出させ、付近の村人と米を交換、六日の昼頃ようやく食事ができた。
三、取り調べのため、マカッサルへ連行だれた際は決まったように「天皇拝み(不動の姿勢で太陽を直視する)を二、三時間やらされた。目を閉じているのが判ると殴られた。豪雨の中の作業、オランダ語で女王の万歳唱え、五回頭を下げさせられた。」
マカッサル裁判の結末
逮捕者 延べ二百名
四六年六月下旬、最後の引揚げ船出帆時
収監者 約 百 名(マンダイ)
起訴有罪者 八十七名
死刑 三十四名
無期刑 九名
有期刑 四十四名
オランダ裁判の特質
太平洋戦争の後、連合国軍(オランダ、アメリカ、中国、フランス、イギリス)に よつて、日本に対するBC級戦犯裁判が行われました。オランダが行った裁判は、四四八件の事件に対し、被告一〇三八名、内死刑二三六
名でした。裁判件数はアメリカに次ぎ、死刑は最も多かったのが目立っています。
一、現インドネシア共和国は、太平洋戦争前は三百年前からオランダ王国の領土でした。
二、日本のオランダ領インドネシア占領戦争は、ジャワ島の九日間を最長に、短期間で終わり、人的損害はごく少数でした。
三、ジャワ及び地方各地には、軍隊だけでなく、官吏、企業者と家族などが居住して いましたが、家族は分断され、不充分で過酷な抑留所生活を強いられました。ジャワでは民間人十一万人(内女性八万人)が、十一か所の鉄格子に囲まれた抑留所内で、自治生活を命ぜられました。
四、オランダ軍は捕虜として、日本本土に送られ、劣悪な生活条件の下、各種過酷な労働を強いられました。また制裁行為も激しいものがあったようです。
五、オランダはオーストラリア、英国の勝利を引き継いで、主権者に戻りました。
六、しかし日本の置き土産でインドネシア人は独立宣言を行い、主権獲得の戦いを挑んできました。オランダ本国は大戦後の国家再建の必要から、現地が求める兵力増強に応じられま
せんでした。
七、インドネシア在住オランダ人は、連合国によって、勝利の側に立って解放されたものの、三百年間かかって築いた宝の島々の優越した自分たちの暮らしを失う事態に
は、苛立ち、怒りが一杯で、そんな状況を作った日本に「うっぷん」を晴らしたいのは当然の成り行きだったのでしょう。
七、日本の侵攻当時、アンボン、メナドには、長年オランダ政府に雇用され年金生活を送っていた人が多かったと言います。オランダ支配が三百年に及び、教育も宗教も文化もオランダ化していたこの地域では、今来た日本よりオランダに親しみを持つ人が多かったのです。裁判はそんな状況、地域性のもとで行われました。裁判を受ける日本側には、刑務所内の苛酷な処遇、慌ただしく強引な裁判審議、厳しい判決に対し、不満以上ののものを残したのも当然だったかも知れません。
オランダ人と系列人の本土引き揚げ
国際連合などの介入に依るハーグでの円卓会議の結果、四九・一二・二八、オランダはインドネシア独立軍との抗争をやめました。インドネシアが完全独立したのは、一九五〇年(昭和二十五年)のことです。オランダはインドネシアを引き揚げるに当たって、長年オランダの手足になって働
いて来た、アンボン、マナド、バタック族などの人逹を家族とともに、本国へ連れて 帰りました。その数は十万人近いと聞いたことがあります。マカッサルの事務所で共に働いたアンボン族の若い女性、私と同年配でしたが、頭の良く働く賢い人でした。父親はオランダ人に近い高級役人だったため失職、それで
彼女が働くようになったのです。家庭内会話はオランダ語だと言っていました。
独立後のインドネシアに、彼女の家族はきっと存在が難しい。彼女は多分オランダに行ったことでしょう。南セレベス中部のセンカンで知り合った官設病院のお医者さんは、ミナハサ(マナド)族出身、この方の家庭内会話もオランダ語とのことでした。オランダに親しいインドネシア人逹が、オランダ本国へ行ってその後どうなったか、少なからず関心を持っていました。
人種差別の少ないオランダ
一九八一〜八五年の四年間、オランダに勤務されたWさんの話
オランダでは、オランダ語を話せばオランダ人として扱われ、世界一人種差別の無い国です。インドネシア系の人逹が集団で暮らしている話は聞いたことがありません。それは有りえないことです。勤務した会社の幹部クラスのお宅によばれて、そこお奥さんがインドネシア系とうケースを随分見ました。かって、インドネシアの宗主国であっただけに、至るところにインドネシア・レストランがあります。
会社の食堂でも、週に一回はナシ・ゴーレン(インドネシア料理・炒めご飯)が出て、真中に目玉焼きが乗っていて、社員の大好物でした。『川崎レユニオン(
Reunion) の会』に招待されたことがあります。戦時中インドネシアから日本へ捕虜として送り込まれ、川崎市の日本鋼管(今のNKK → JFE)の工場で、強制労働させられたメンバー(約五十人)の会です。幸い日本鋼管で働いた方逹は、全員無事にオランダへ帰国できたそうです。その中にインドネシア系オランダ人もいました。
この会の幹事さんが、ミスターBeaupan(なぜかフランス名)と言う小柄の、浅黒い紳士でした。捕虜になったのは十八歳位、メンバーの中で一番若いので幹事をやっているとのことでした。私の印象ではジャワ系の感じです。外のメンバーの方はほとんど高齢でした。初めに接触があった時は、袋叩きにされるのかと心配でしたが「あれは戦争と言う
非常事態でのこと」と言われてほっとしました。「人種問題」は、非常にデリケートで、職場でも、ビジネスの場、社交の場でも話題にすることはタブーでした。(日本人はすぐ聞きたがるんです)それではまったく問題がないかと言うと、裏では違うと思います。
オランダに住むインドネシア系の人逹は、時々バカンスでマナドなどの別荘に帰るようです。オランダの気候が北海道に似ていて冷涼の日々が長いので、バカンスの旅行には暑い国が好まれるようです。私も一度そんな方と飛行機でお話したこどがあり
ます。
(*マナドの郊外、トモホン、トンダノは、マナド飛行場からも近く、標高七〜八百mの高原都市で、いつも涼しくインドネシア著名な別荘地になっています。)
国際法規を教えられなかった
ニューギニア・ホーランデイア戦争犯罪裁判で弁護を担当した青木弁護人は言いました。「日本軍の一人々が国際法規に無知であったことが残念だ」よく知られているように日本は、日清戦争と日露戦争において、国際法規を忠実に守り、世界から称賛された。
清国に対する宣戦の詔勅(天皇の発した文書)の中に「いやしくも国際法に、もとらざる限り、各々権能に応じて、一切の手段を尽くすに於いて、必ず遺漏(いろう)なからむことを期せよ」とある。ロシアに対する宣戦の詔勅にも「およそ国際法期の範囲において、一切の手段をつくし、遺算なからむことを期せよ」と、延べられ、俘虜に対する処遇も慎重であり、ヘーグ条約における戦争法規もよく知り、よく守っていた。
ところが太平洋戦争においては、ヒットラー(ドイツ)ムッソリーニ(イタリー)が、国際法無視の挙に出た影響を受け、高ぶったのだろうか、米英に対する宣戦の詔
勅には、国際法のことはどこにも触れられていなかった。
青木弁護人はさらに言う。「日本軍が多少でも国際法に知識を持っていたら、戦争犯罪裁判の醜態はなかったのではないか。
俘虜に対する軽蔑の念を日本人に植えつけたことが、俘虜虐待事件の原因になったのではないか。国際法で俘虜は義務を果たした名誉ある軍人として相対し、彼らに対して侮蔑的な言動は一切加えてはならないと言う思想だった。
「兵補(ジャワなど各地の若者を日本兵の補助員として集めた)処刑事件」も、国際法を知らずとも、日本の陸海軍刑法を知って行動していたら、弁護はもっとやりやすかった。
しかし、日本兵には俘虜や兵補の人権、権利にたいする知識も理解もなかった。』
日本の軍指導者は自国の軍隊に「戦陣訓」などで「降伏を認めない=俘虜の辱めを受けてはならない」と命じました。その感覚が俘虜への侮蔑感となり、敗戦後もその意識でBC級戦争犯罪裁判に出会った、
「上官の命令は絶対だった・・」と言う弁明も相手には通じなかった。
BC級戦争犯罪裁判は「勝利者の報復」に基づく政治的意図に彩られていたことに 違いはないが「日本側にも欠陥があったことは否めない」
青木弁護人はさらに言います。『オランダ側は、私が求める国際法の書物を取り寄せてくれた。日本人ならどんな態度を取っただろうと考えた。人道的と言わないまでも、日本人は他民族に接する際「威張ったりして」職務に忠実なことが、結果として反対となる。
戦争犯罪者として逮捕、抑留されながら、無事帰国したような人は、現地民に恩恵をほどこし、それで助けられた例が多かった。忠実に職務を遂行する上で、それがやむを得ないとして行った行為と、権限を越えて「威張る」態度に立った行為と、結果の明暗を分けたような処があった』(孤島の
土となるとも)この述懐はいまも生きる重要な教訓です。
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