永江 チヨ
なれそめ
大正十五年(一九二五年)七月七日、私が二十三歳の時、八年間の事務員生活に休止符を打ち、結婚しました。同郷の彼と……。彼とは通信生養成所の同期で、彼は卒業後小樽郵便局電信課に就職、後に寿都郵便局電信課に転勤して来ました。私は寿都郵便局に就職しておりましたので、彼と出会いました。
彼は通信生養成所三年間の義務年限を終えて上京し、海外植民学校(世田谷)へ入学して、スペイン語を勉強しました。彼はブラジルでコーヒー園を経営する夢を見ていたのです。しかし、両親が反対して旅費を出してくれませんでしたので、約束していた友達はブラジルへ渡航、彼は南洋貿易株式会社へ入社し、トラック島支店に勤務することになったのです。大正十二年(一九二三年)九月でした。私は家族と共に札幌に引っ越し、当時の札幌通信局に勤務していました。彼との文通が、札幌と東京、札幌とトラック島と八年間続きました。二人とも手紙を書くのが好きだったのでしょう。
結婚
その頃の結婚はたいてい親の決めた見合い結婚が普通でした。私は何んとなく遠い所へ行きたいと考えて、トラック島へ行こうと思いました。母の反対は当然でしたが、彼がいるというだけで安心していました。トラックの生活について、詳しいことは書いてありませんでした。私は生意気な娘だったのでしょう。そして大胆でした。彼は大正十五年、会社の休暇を利用して帰郷し、私達は寿都の両親の家で、ささやかな結婚式をあげました。休暇も終り、トラック島に帰る日が来て、横浜からの出航の日が決まりました。
この旅行が私達の新婚旅行でした。主人の母が函館まで見送りに来てくれました。奈良、京都をかけ足で見物し、京都の東本願寺で偶然同じ会社の新婚カップルと出会いまして、その奥様のご親戚の家へ無理に連れて行かれ、見物が途中で終わってしまい、残念でした。
神戸へ出て、船で瀬戸内海を通過、横浜港へ着き、同じ会社の新婚カップルと合流し、いよいよサイパン経由の山城丸(日本郵船会社)で出港しました。
トラック島・夏島
毎日、青い海と空を眺めるだけの航海が、十二、三日続きました。幸い船酔いもなく、元気でトラック島の夏島に着きました時は、ホッとしました。会社の奥様方が数人出迎えて下さいました。社宅に案内されて、何より先に浴衣に着替えウチワで風を入れて、やっとヤレヤレという気がしました。札幌の真夏日と同じ四十度近い暑さが毎日なんです。
この夏島がトラック島で一番の文化的な島で、支庁や学校、病院、郵便局、発電所があり、日本人の家庭では夜九時まで電灯が灯りました。九時以後はランプ使用でした。日本人がたくさん住んでおりました。個人の商店もあり、料亭とまでは言えませんが、男性の休息の場とでもいいましょうか、そんな店もありました。
銭湯はなく、会社関係の人逹だけの風呂がありました。混浴で案内された時はびっくりしてすぐには入れませんでした。でも、暑くて汗が出ますし、入らずにはいられません。
水曜島
この夏島の社宅には五、六日の滞在で、夏島から一番遠い水曜島の分店に勤務となったのです。夏島からは帆船(ヨットの大型の船です)帆を上げて風まかせの航海です。いろいろと食料品を積んで、お天気もよく、京都で会った新婚さんは途中の春島勤務となったので、同じボートで一緒に出港しました。
ところが思いがけない出来事が起こりました。私は彼の言うままに、デッキの上で藤椅子に座っていたのですが、ボートが傾き、身体が動いたトタンに、ドボンと海中に転落してしまったのです。日傘を開いていましたので、傘が海水を押していたのでしょうか、気を失ってしまって水は何も飲んでいませんでした。
セーラーに抱えられた時は、フカにでも噛みつかれたかと思ったのでしょう。「コワイ!」と叫んでいたそうです。ほんとに馬鹿みたいですよね。揺れる船の上で椅子に腰掛けるなんて・・。二人とも旦那がついていながらですから。そして落ちたのは私だけなんです。
セーラーにかたく口止めしたのですが、たちまち会社に知れて大笑いされましたが、私は笑い事ではありませんでした。とうとう、その日は近くの春島の分店に泊まってしまいました。翌日、水曜島に着きました。帆船ですから風がなければ、何時間でも海上を漂っていなければなりません。
いよいよ、私の住み家です。びっくりしましたね。一部屋だけのバラックで、押し入れもなく、戸一枚が外との仕切りでした。常夏ですから、風通しの良いのは分かりますが、驚きました。これが私の新婚生活の始まりでした。
『植生の宿もわが宿』『不自由を常と思えば不足なし』などとつぶやいて我慢の一点張りでした。私が自分で決めてついて来たのですから、もう引き返す事は出来ません。一緒に来た二組のカップルは、この不便で不自由な離島生活に耐えられなかったのでしょう。ご主人は会社を辞め、内地に帰りました。住む家は本当に粗末で、焼け出されたバラックに住んでいるようなものでしたから。
水道もなく、雨水をタンクに溜めて、それを大切に使いました。雨が降るとあらゆる器に水を受けて、洗濯したりしました。
水曜島には昭和五年(一九三〇年)までおりました。分店の反対側のファーソンという村に公学校(島民子女の学校)があり、駐在所があり、先生や巡査の家族が住んでいました。分店には年に一度か二度、巡査が見回りに来るばかりでした。
公学校から日本人の家庭生活を知るために、雑用の手伝いに生徒を一人よこしてくれました。このボーイが、ある日突然日本語で「靴が鳴る」という童謡を歌ったのです。私は懐かしくて思わず涙が出そうになりました。ボーイも「あっ、奥さんが涙ぐんでいる」とトラック語で言いました。
水曜島には、沖縄県の人が沢山おり、カツオブシを製造しておりました。毎日新鮮なカツオを持って来てくれましたが、食べ切れませんので、味噌漬けにしたり、塩漬けにして夏島の食堂へ送りました。「グルグル」と言う夏ミカンと同じ果物があり毎日食べました。「パンの実」は石焼きにしたのを持って来てもらいましたが、ジャガイモのゆでたのと同じ味がして好きでした。丸い形と少し細長いのとがありましたが、丸い方がおいしかったようです。
トラック島は果物が多いと思いました。バナナとマンゴーがありよく食べました。また、春島にはサツマイモが出来ましたが、白い皮で内地のものよりアッサリした味で、よく子供逹のおやつに持って来てくれました。タバコやパンと物々交換しました。島民は子供でもタバコを吹いました。島民の主食はパンの実、タロイモなどで、石焼きにしてバナナの葉に包んで発酵させて食べます。この臭いは私達にはとても我慢が出来ませんでした。
女の人が大勢で輪になって海に入り、真中に魚を追い込んで、小さな網で魚をすくい取ります。椰子の木の未熟な実の中の水は、島民の飲料水になり、煮詰めますとアメのようになり、パンにつけて食べました。サトウキビをかじって甘い汁をしゃぶりました。昭和五年子供二人を連れて、初めて里帰りしました。嫁として両親や兄姉に少しは気を使いましたし、来客もあり、大変疲れた日もありましたが、久し振りに人間の仲間に入ったような気がしました。忘れた日本語を思い出した気もするのですが、二か月の休暇はすぐ終わりました。が、南洋の孤島へ帰るのが楽しくなるのでした。子供逹も小さい間は育てやすいと思いました。子供逹も島民語を大変上手に話し、
可愛いがられていました。
春島
トラック支店長がパラオ島に転勤になった時、主人も一緒にと言う話しが出まし が、主人は辞退しました。また、春島分店の生活が始まり、分店二つを毎日自転車で見回っていました。春島の公学校に、先生が二家族住んでおられました。公学校で時々映画があって、四キロ位の夜道をランタルを下げて、使用人を連れて見に行きました。水曜島でも同じですが、クリスマスには女の人が新しいワンピースを作るのです。何枚も頼まれて作り、会社から工賃を頂きました。昔、日本にあった新モスという生地で、白や赤、黄、桃色の四種類くらいで、大巾の四ヤールで一枚出来上がります。袖口と首回りと腰に細いレースの線を入れただけの簡単なものです。クリスマスには盛装をして教会へ行きます。米を買い、鮭の缶詰を開けてご馳走します。
新モスの生地で蚊帳を作り、家族の仕切りにしていました。この時のミシンは米国製の足踏みのミシンでした。このミシンは後に小樽まで持って行きました。春島では豆の入らない丸パンを作って、椰子の実十個とパン一個と交換しました。よく売れまして、水曜島分店でも真似をしました。交換した椰子の実は、使用人が皮をむき、実を削って乾燥し、コプラという製品に
して日本に送るのです。石鹸の原料にするそうで、南洋貿易会社の商売なのです。春島時代に高松宮様がお出になられて、ご視察なさった事がありました。主人が宮様にコプラの製造法を説明申し上げたそうです。
秋島
春島から秋島に移りました。秋島は夏島に一番近い島でした。高(こう)さんと言う朝鮮の人がおり、同じ商売をしていましたが、あまり会う機会がありませんでした。ドイツ人の宣教師がおられて、パン種の作り方を教えてくださいました。後に夏島で自家用のパンを焼きました。
夏島の生活
秋島で離島生活が終わりました。長男が小学校に入学する時が来たのです。昭和九年長男が小学校へ入学と共に、夏島の売店勤務となり、夏島の生活が始まりました。売店と住宅が続いていました。初めて家らしい社宅に住むことが出来ました。
トラック島で一番大きなデパートです。日本人の生活に必要な物資は殆ど揃えてありました。店員も四、五人おり、現地人のボーイもおりました。忙しい時は私も手伝いました。日本人のお客様も来ますので、日本語を話す機会も多くなりました。一か月に一度、定期便の船が入港して、いろいろな商品や郵便物などを積んで来ます。荷物の積みおろしには、島の囚人を使います。軽罰のものですけれど、離島から来ることもあります。いろいろの缶詰のある事や、乾燥野菜のある事も知りました。油揚げの乾燥した物も初めて知りました。人参、白菜、ゴボウなど薄切りにして乾燥したものなどです。
昭和十二、三年頃には豆腐屋さんも出来て、豆腐ばかりでなく、注文すれば餅、赤飯も作ってくれます。また、沖縄の人が野菜を作るようになりましたが、よい物は出来ませんでした。製氷所も出来ました。だんだん便利になりました。八年間文化的なものは一つもない山の中の一軒家の生活でした。日本語さえ忘れそうだった孤独の生活から、急に明るい世の中に出て来て、電灯の光が眩しい位でした。人間関係に戸惑ったり、煩わしかったり、無口で社交性のない私は、のんびりした離島生活がなつかしくなる時もありました。店の手伝いをしたり、次男の足を丹毒におかされ病院通いをしたり、子供が生まれたり、私なりに忙しい日々でした。
内地から教会の牧師さんが視察に来られた時、パンを焼いてお届けした事もありました。売店の近くに公園があり、大きなマンゴーの木があって、よくボーイが持って来てくれました。主人のアイディアで、年末大売出しをした事もあり、大多忙でした。事務所から社員の人に手伝いに来て頂きました。私は食事の支度も出来ず、食堂から出前をとりました。大売出しは大成功でした。
売店勤務も三年が過ぎ、昭和十一年(一九三六年)主人の三度目の休暇となり、子供四人を連れて小樽に帰省しました。寿都にいた両親は、小樽の主人の弟と同居していたのですが、私達の帰省を待たずに、義父は三月に亡くなっており、残念に思いました。弟の隣家を借りて住み、二か月の休暇はすぐ終わりました。
長男が小学三年生でしたが、主人の姉の連れ合いが、小樽市ハリウス小学校校長だったので、預かって貰うことにして、また島に帰りました。この時はパラオ経由で、パラオの南洋貿易社宅に一泊しました。サイパン経由より日数がかかりました。パラオ見物が出来ませんでしたのが少し残念でした。トラック島へ帰ってから支店事務所勤務となり、初めてサラリーマンらしく、ワイシャツで、朝から夕方までの勤務となりました。お隣りのある社宅に住むようになり、ベランダ越しに顔を会わせることもありました。
子供逹にも友達が出来ました。お寺の坊さんが幼稚園を開設され、長女も友達と一緒に一期生になりました。この社宅で四男が生まれました。昭和十四年(一九三九年)小学校四年になった次男を、内地に帰る知人に同行させて頂き、旅立たせました。横浜では主人の兄が迎えに来て下さるよう手配しました。心配でしたが、中学進学のためやむを得ませんでした。
トラック島との別れ
昭和十五年(一九四〇年)いよいよ私とトラック島との別れの日が来ました。長男が小樽商業学校へ入学する事になり、次男と二人、小樽の弟の家に寄宿するようになりましたので、私は子供逹と生活するために、主人をトラック島に残し子供三人を連れて小樽に引き揚げました。
十五年の孤島の生活の思い出、美しい島々や現地の人逹への愛着……去りがたい気持ち、この先二度と来れるとは思いませんでした。主人と夏は北海道で過ごし、冬はトラック島で過ごそうと話し合ったものでした。
『植生の宿も我が宿』『不自由を常と思えば不足なし』と呟きながら耐え忍んだあの孤島の生活も別れとなると感無量でした。私には忘れがたい住み良い島でした。浦島太郎が住んだ竜宮城だったかも知れません。経済的には何の心配もなく、多少の貯金も出来たのです。
昭和十五年、小樽市入船町の借家に、私と子供五人の生活が始まりました。
昭和十六年三月、主人が休暇で二か月滞在し、五月またトラック島へ引返しました。主人もトラック島が好きだったのです。
総引き揚げ
昭和十九年(一九四四年)トラック島が戦場になる頃、盛んに途中遭難の噂がある中で、主人は無事帰って来ました。この後主人はまたトラック島に帰りたくて、会社を辞め、自分で仕事を始める準備にかかったのですが、戦争の情況は益々悪く、皆に注意され、渡航を断念しました。
(以下略)
『チヨ米寿記念に記す
平成三年(一九九一年)四月一日』
(トラック島関係のみ抜粋・見出しは勝朗)
『注記・勝朗』
・叔父健二
一九〇二年(明治三十五年)一月寿都生まれ、
筆者叔母チヨ
一九〇四年(明治三十七年)一月寿都生まれ。
・叔父は六六年(昭和四十一年)に亡くなりました。
叔母は長命で、この記録を遺した後、平成六年(九四)七月、九十歳で逝きました。
・一九二六年(大正十五年)叔父逹の結婚式の写真に、満三歳になった私が母の膝で写っています。その写真を良く見ると、床柱に椰子の実で作った飾りが掛かっています。叔父の南洋土産でしょう。
・昭和五年、叔父一家、最初の帰郷をしました。私達も合流、一緒に寿都の海で海水浴、八月十日に羊蹄山登山をしています。
・一九四一年(昭和十六年)秋、勝朗は叔父に南洋貿易鰍ヨの就職を依頼、十二月戦争勃発で一時中止、戦局の進展でセレベス島マカッサル支店に勤務することなりました。四年間の南セレベス生活。私は良き上司、良き仕事に恵まれ、多くの教訓を得て、一九四六年(昭和二十一年)五月、無事元気に帰国できました。
・叔父一家は戦時下北海道小樽に定住、私の帰国した時は、食糧事情のこともあっ
て、倶知安にほど近い小沢村に転居、開拓農業者になっていました。
・叔父一家は後に札幌に転住しました。
・叔母はお嫁さんたちと一緒にトラック島を再訪されたと聞きましたが、ここに書き残されておりません。
一八九二年(明治二十五年)日本から一隻の帆船が南の海に旅立ちましたた。船の名は天裕丸、南洋へ二度目の航海でした。船には南の島々に夢を抱いた若者たちが何人も乗っていました。その中に南洋群島雄飛先達の一人と言われた、森小辯(こべん=一八六九年・明治二年生れ、一九四五年・昭和二十年没)さんもいました。
彼は島の特産物の椰子の実から取るコプラ(油脂原料・石鹸、ロウソク用)などを、日本に送り、その金で学校を建てたり公共に貢献、水曜島の大酋長に選任されました。小辯に十一人の子供ができ、それぞれに三人から十六人の孫がいます。たった一人でトラック島にやって来た小弁の子孫は「近隣の島々を合わせると四百人以上いるでしょう」孫の一人森アントニーさん(三二)は語ります。森フアミリーの家には必ずと言っていいほど、小弁の写真が飾られています。写真を前にひ孫の森マーさん(二五)は言います。「私は自分に日本人の血が流れていることを誇りに思います。ひいおじいさんは、たった一人でチュークに来た。私だったら怖いと思う。その勇気はすごい。そして、自分の食べ物が少ない時、島の人々に食べ物を分けあい、病人に薬をあげた。日本人だからそれが出来たんだと思う」マーリーンさんの家族は、今も「勇気」「思いやり」と言う「日本人の気持ち」を大切に子供に伝え続けているのだと言います。
(〇二年九月二十三日、サンケイ新聞 から)
『森は、高知市生れ、先に大阪、奈良在住を経て、一八八九年(明治二二年)上京、土佐出身政治家後藤象二郎、大江卓の知遇を得る。東京専門学校(早稲田大学の前身)を中退、一八九一年(明治二四年)南洋貿易の商社、一屋商会に入社、翌年同社員として天裕丸に乗船、ポナペ(ポンペイ)を経て、トラック・モエン島に至る。後に島の酋長の娘イサベラと結婚、六男五女をなす。
一八九七年(明治三十年)南洋貿易日置会社トラック支店主任となる。
一八九九年(明治三二年)ドイツ国策会社ジャルイットと契約、一九一五年(大正四年)南洋群島が日本海軍に占領されるまで取引を行ったが、その後は独立経営。一九一四年(大正三年)日本軍のトラック島占領に伴う、軍と現地の間に立って活躍、その功により「勲八等瑞宝章」「従軍徽章」を授与された。
青年時代にトラックで右手を失い、晩年は”左拳”と号した。
現在トラック島における彼の子孫は、直系だけでも一〇〇〇人を肥え、トラック島
で最も有力な家系となっている。』HPから
『追記』
・森さん皆「名を小弁」と書いていますが、明治の初期(弁)と言う略字を使っていなかったと思い、独断で(辯)の字を当てました。
・森さんの渡航した一八九二年、南洋は当時スペイン統治下にありました。現地の島人達には、開国間もない日本は存在すら知らなかったでしょう。それがトラック離島の酋長に見込まれ娘婿に迎えられたとは、森さんが大変優れた人柄だったことが想像できます。
後年、南洋群島は日本の統治下に入るとは、夢にも考えなかったでしょう。またその後群島は大戦争の戦場になり、長年働いた多くの蓄積が、壊滅させられるのは、誰よりも悲しんでいたに違いありません。
・森さんの経歴から、戦前雑誌「少年倶楽部」に、昭和八年から十四年にかけて連載された島田啓三作「冒険ダン吉」のモデルだと、評判になったそうです。昭和八年、私は小学四年生で「冒険ダン吉」には夢中になった一人でしたが、私が森さんを知っ
たのはごく最近のことです。
・森小辯さんが酋長になった島は、奇しくも叔父たちが夫婦で最初に赴任した水曜島です。
・森小辯さんは一八九一年(明治二四年)南洋貿易の商社、一屋商会に入社、一八九七年(明治三十年)南洋貿易日置会社トラック支店主任となると、ありますから、南洋貿易会社社員としてスタートした私の大先輩に当ります。
・トラック(チューク)島旧夏島(デュブロン島)には、一九四〇年(昭和十五年)
に建てられた森さんの顕徳碑が遺されています。この年チヨ叔母は北海道に帰国しました。叔父は南貿トラック支店幹部でしたから、顕徳碑建立に参画したものとおもわれます。
・敗戦後日本人は、全員本土引き揚げとなったのですが、森さんだけは例外的に残留が認められました。
・森さんの孫で一族の長老正隆さん(九六年当時七二歳)は、現在六世代まで下がって、父方の直系だけでも軽く一〇〇〇人を超しますと言っています。
・高知市では、明治二十年代に高知市から雄飛した、坂本龍馬の甥、坂本直寛(北海道・空知浦臼開拓に加わった、キリスト教伝導者)明治二十七年ハワイに渡り、当時苦境の下奮闘していた日本移民の社会的地位向上を図って、病院、学校を建て、心の支えとなった奥村夛喜衛(高知城に似せたマキキ聖城教会を建てた)同じ時期トラック島に渡り、大きな足跡を残した森小辯の三人を高知自由民権の先駆者として、事跡を改めて顕彰しようという動きがあります。
奥村夛喜衛の子孫の夫人の中に、森一族の子孫がおられるとのこと、戦後平和五十年間に、ハワイとチューク島(トラック)が直接繋がっていたのです。
・明治二六年高知・武市安哉が二五名の青年と共に北海道、浦臼に入殖しました。私の母方の今西も高知県本山町に在住した一族でしたが、この関係で数年後に一家挙って浦臼に入殖しています。坂本直寛は、指導者武市安哉明治二七年の急逝に伴い、明治三一年入殖したばかりの北見を離れ、浦臼開拓に移ったと伝えられます。
・私の祖父は、慶応元年島根県生れ、やはり明治二十年代に、北海道に渡っています。
・私の町倶知安に開拓の鍬の入ったのが、一八九一年(明治二四年)とされています。明治二十年代は、日本全国の民衆が四方に飛躍、激動した時代でもあったようです。そんな時代の末に今の私達がいるのです。
母系社会
南洋群島の殆どが母系社会と言われます。
母系社会では、男性から見ると「母親と子供」は、女性の実家から借り受けている存在とされ、家族の中で、母親が父親より重要な役割と、大きな発言力を持っています。酋長の地位にある人が亡くなると、その地位は直接の息子が引き継ぐことはなく亡くなった酋長の姉や妹の息子に引き継がれます。森さんをこんな社会が受け入れたのです。
南洋貿易鰍ヘ、一九四二年(昭和十七年)七月一日、北海道・室蘭市を本拠地とした栗林商会且ミ長栗林徳一さんが率いる南洋興発鰍ニ合併、消滅しました。南貿椛n立は、一八九四年(明治二十七年)でしたから四十八年の寿命でした。一九四五年(昭和二十年)九月、日本敗戦に伴い占領軍指令により、南洋興発鰍熾ツ鎖機関の指定を受け解散しました。四六年(昭和二十一年)五月、南興マカッサル事業所(支店)所員は、大きな街
は皆焼け野原となった日本に引き揚げて来ました。その内東京在住の人逹が中心に再結集、栗林商会の傘下で、徐々に商業活動を再起動させて行きました。
南貿復活
南洋群島は、太平洋戦争の後、国連信託(アメリカ)統治時代となり、一九七〇年代に入り、太平洋各地域と共に独立を達成する大変貌時代を迎えていたのでした。一九五〇年(昭和二十五年)十二月、南洋興発社長として公職追放を受け、解除直
後の栗林徳一さんを社長に、南洋貿易鰍ヘ栗林商会グループの貿易会社として、復活しました。マカッサル支店の人逹も多く参画しました。
現南貿渇長栗林徳五郎さんのお話です。
『南貿再建当時、徳一社長は五十五歳でした。参画者は大浜賢強、松村善次郎、小菅輝雄、玉置光男、山崎軍太、文野年紀、和田利之、木村次郎、小池育之助、吉川大一の皆さんで、塔島栄一さんは大分後に参加したようです。
仕事は事業と貿易の二つで始まりました。(後に和田利之さんは帯広生コン会社役員に、木村次郎さんは栗林商事本社に勤務しました)しかし、マグロ、かつお漁業基地、造材事業等はいずれもうまく行かず、特に五五年(昭和三十年)の朝鮮戦争終了による鉄クズ価格の下落で、決定的打撃を受けました。
一九六二年(昭和三十七年)徳一の三男徳五郎(現南貿会長)が社長に就任、一切の整理に当たり、会社は南太平洋諸島向け輸出業務に限定、ビール、ビスケット、缶詰、車、電気製品、日用雑貨、あらゆるものを組入れ、南洋のデパート卸問屋となりました。南貿は事業に手を出さないことにしていたものの、結局様々なことに手を染めました。
一九六八年、東京ーグアム間に空便就航に際し、洞爺湖温泉万世閣と組んで、サイパンにホテルを建てました。これは今は、近ツー系六百室を越える「ハファダイビーチホテル」となっています。
本業の貿易の仕事は二十人〜三十人の社員、パラオ、ポンペイ(ミクロネシア連邦)マジュロ(マーシャル諸島共和国)その他各地の駐在員は、活発に太平洋諸島との交流を深めています。
名誉総領事
ハワイの真南にクリスマス島と言う世界一大きなサンゴ礁の島があります。(キリバス共和国)十五年前、私はここに日本の宇宙基地を設けようと夢を抱き、それに没頭して来ました。一昨年宇宙事業団がロケット実験場を作ることになりました。クリスマス島の優れた天然条件を活かそうと、塩田を設け、天然塩を作って日本に送り、普及に努めています。キリバス共和国、ツバル共和国は、南洋貿易鰍フ太平洋諸国への貢献をたたえ、私に両国名誉総領事の称号を与えてくれました。またイギリスのエリザベス女王の大勲章(日本では勲一等に当たるものです)を私に授けてくれました。これは総て戦前の南洋興発鰍フ犠牲の上に飾られた、一本の花と信じ、私は有難くお受けしました。』
「南用貿易潟zームページから(抜粋)」
当社の過去の歴史は決して平坦なものではありませんでした。明治、大正の冒険野郎時代、戦前。戦中の国策化時代、そして、昭和二十五年(一九五〇年)の再興。現在に至るまで当社が一貫してなしてきたことは、いかに相手国の発展に寄与できるかという、いわば”国造り”そのものです。これからも、当社の担う社会的任務はますます大きくなり、当社はその期待に応えて行かなければなりません。その道は決して平坦ではなく、今まで以上に難しいものになりましょう。それは、太平洋の国々の国造りの歴史そのものになろうからです。
太平洋島嶼国家群
旧南洋群島は、一九七九年のミクロネシア連邦共和国が誕生の後、マーシャル共和国が生まれ、一九九四年のパラオ共和国が誕生しました。北マリヤナ連邦共和国はアメリカ自治領として、フアムはアメリカ直轄領となりました。
南洋群島の南、東南方向の太平洋戦争で戦場となった島々は、それより先、一九七〇年一〇月国連加盟をなしとげたフイジーを筆頭に、続々と独立を果たしました。
新しい英語圏
太平洋島嶼国は、ハワイ、グアム、フィリピン、宗主国アメリカ、オーストラリア、ニュージーランド等広く大きな英語圏に包含され、政治、教育、文化、経済の交流は大変盛んに行われているようです。もちろん、各国はまだ充分豊かとは言えません。しかし長かった英国、スペイン、ドイツ、日本、アメリカなど強国の直接支配下の時代に比べ、今は、幸せと言えるでしょう。
パプア・インドネシア等
今後この地域が二度と戦場になることはないと思いますが、インドネシア領ニュー
ギニアでは、住民の独立抗争が続いています。太平洋島嶼地域の発展が、順調であればあるほど、インドネシア領内パプア住民の分離独立へ動きは益々抑えがたいものになることでしょう。一部の島は、強国の原爆実験場として使われ、後遺症は依然残っているといわれます。
太平洋戦争中、敵味方双方三十万人以上の人が命を失いました。
ガダルカナル島を皮切りに、マキン・タラワ島の玉砕、ニューギニア沿岸での敗退の戦場、サイパン、グアム、パラオ・ペリュリュー島、イオー島の戦闘、海上輸送、数えるのが恐ろしい多くの戦場があって、日本、米国、豪州、現地住民を含め数多の人命が失われました。トラック(チューク)には、日本海軍連合艦隊司令部があり、ここに上陸作戦はなかったものの、徹底した爆撃を受け、艦船・地上設備は総て壊滅状態になりました。
勿論兵士や民間人の命も奪われたのです。群島各島々にもそんな惨禍が襲っていたのでしょう。
国民の二、三十%が日系
一九四〇年(昭和十五年)の統計によると、全南洋群島の在住邦人は、八万四五二
四人(男・五万一六二人、女三万四三六二人)これは一時駐留兵士を除いた数です。(内五万人が沖縄県からの移住者でした)一方ミクロネシア人は五万一一〇六人でしたから、その数をはるかに凌いでいました。これだけ日本人がいれば、現地人との混血が進むのはむしろ当然だったでしょう。しかし日本統治期、本土人の数の多かった頃は、日系混血児(日系人)は、本土人に対し多分肩身が狭い存在で、差別もあったのでは無いでしょうか。しかし敗戦によって本土人は全員が引き揚げました。島の多くは、母親の出身家系が伝統的社会階層を規定する「母系制社会」でした。
日系人の酋長が少なくないのは彼らは酋長の娘と結婚した日本人の二世だったからです。現在島住民の中で日系は、島人口の二〜三十%に達していると言わます。しかも、その人逹の多くが各国の指導層として活躍しています。
活躍する日系
一九七九年、ミクロネシア連邦共和国初代大統領には、日系トシオ・ナカヤマさんが選出されました。一九九六年現在、この地域で選出された大統領八人の内四名が日系人、パラオ、クニオ・ナカムラ、マーシャル諸島共和国アマタ・カプアは現職大統領でした。
マーシャル諸島共和国大統領は、二〇〇〇年一月改選され、初の平民出身ケーサイ・ノートさんが就任しましたが、夫人メアリ・ネイモジと共に日系三世です。二人は共に一九五〇年生れ、大統領はパプア・ニューギニア、ブーダル・カレッジ卒、夫人はカルフォルニア州立キャニオン・カレッジ卒です。
パラオ第四代大統領だったクニオ・ナカムラは、六七年ハワイ大学を卒業、高校教師の後、政界に入り、九三年大統領に就任、兄ダイジロウさんは上院議員、兄故マモルさんは最高裁判所長を務めました。
パラオ初代大統領H・レメリークさんは母親が日本人と言う日系でした。
日系を同化した島文化
日系と言う血の違いは、島の伝統社会の中では差別の対象としない島社会の特徴が、多くの日系人を国作りのリーダーとして輩出する素地をつくったのでしょう。これら太平洋諸国の日系人は、地元との同化が進み、ブラジルやハワイに見られる格別な日系人社会を形成する動きはなく、一つ違った日系社会の形を示していると言えるかも知れません。日本人がミクロネシアにいると、時として異文化を感じないことがあります。これはミクロネシア全体が、もう一つの日系人社会になっているからだと言ったら過言になるでしょうか。
外国人居住者も多いパラオの人口は凡そ二万五千人、その内五千人はグアム、サイパン、ハワイ、アメリカ本土などに職を得ていてパラオから離れていると言われます。反面、パラオ在住の外国人は五千人いて、その内一番多いのはフィリピンの三千人、後はアメリカ、日本(一五〇〜二〇〇人)中国、韓国、バングラデッシュ人です。アメリカの統治が長かった関係で、フィリピン人、韓国人の移住が多いのは理解できます。サイパンでは、各種加工業にフィリピン、中国、バングラデイッシュ人が雇用されているようですが、パラオはどんな背景で来て、何をしているのでしょう。
島人口の二十%が外国人、高い比率です。
これからの五十年に島文化はこれをどう受入れどう変化するのでしょうか。
カツオ・マグロ
世界全体でカツオ・マグロ類は約三〇〇万トンとれ,内二〇〇万トンが太平洋で、さらに一〇〇万トンが中西太平洋でとれます。日本はその内七〇万トンを世界中からとり、うち六〇万トンを太平洋で、その半分三〇万トンを中西太平洋でとっています。中西太平洋とはミクロネシア、ポリネシア付近のことをいいます。この島嶼国群に取って漁業は最大の利権であり、日本にとって重要な食糧の供給先なのです。長く資源を枯渇させずに協調して行くことが求められています。
「太平洋諸国の概要」
国名 首都 人口(万)産業
(ミクロネシア)
グアム アガナ 一五・〇 観光
*総領事館 設置
(アメリカ直轄領)
北マリアナ連 サイパン 七・二 観光
(アメリカ自治領)
ミクロネシア連 ポンペイ 一一・六 農・漁
*駐在官事務所 九五年設置
パラオ共和国 コロール 一・九 観光
マーシャル共 マジュロ 六・三 農・漁
キリバス共和国 タラワ 八・九 農・漁
*国民所得 七一〇ドル
フィリピン 八二四ドル
*漁船員訓練所あり(日本提供)
ナウル共和国 ナウル 一・一 燐鉱石
(メラネシア)
パプア・ニューギニア ポートモレスビー
四六九・二 鉱・木
*国民所得 一一二〇ドル
*日本大使館 七五年開設
フイジー共 スヴァ 八〇・二 観・農
*国民所得 二一四〇ドル
タイ 二一〇六ドル
*日本大使館 開設
ヴァヌアツ共 ポートヴィラ
一八・九 農・漁
*国民所得 一二三〇ドル
ソロモン諸島 ホニアラ 四二・一 木・漁
*国民所得 七二〇ドル
*駐在官事務所 設置
N・カレドニア ヌメア 二一・三 観・鉱
(ポリネシア)
サモア アピア 一六・二 農・木
トンガ王国 ヌクアロファ一〇・〇 農・漁
*国民所得 一六一〇ドル
ツバル フナフチ 一・〇 農
クック諸島 ラロトンガ 一・七 観・農
アメリカン・サモア
パゴパゴ 六・三 漁
仏領ポリネシア(タヒチ)
パペーテ 二・九 観光
『参考図書』
「南洋貿易のあゆみ」南洋貿易株式会社
栗林徳五郎著
一九七〇年発行
「ようこそ南洋貿易鰍フHPへ」
南洋貿易株式会社
[外交フォーラム・九六年三月号」
セレベスは望外の地でした。
豪雪の街、倶知安で育った十九歳の少年は、長年憧れてていた南の国に旅立ちまた。思えばインドネシア・セレベス島に四年間も行っていられたなんて、あの戦争が私にもたらした「僥倖」だったのです。それをあたかも、自分の意志で行ったかのように錯覚し、長いこと何の不思議も感じないで生きてきました。目玉焼も知らない貧しかった田舎育ちの十九歳の少年が、二十二歳に至るセレベス四年の体験を、二年に亘って綴りました。
目的の掴めない戦争
ニューギニア戦史を読み、戦争経過の地図を見て思いました。何故あんな遥か遠い南海の涯、ガダルカナル島(現ソロモン群島共和国)の飛行場確保に、繰り返し何万人もの兵士を犠牲にしなければならなかったか。ポートモレスビー(現パプアニューギニアの首都)当時は何もない田舎町でした。この町攻略のため、わざわざ原始の山、道の無い難関を越えて行こうと言うのに、殆ど食糧らしいものも持たすことなく大兵を送り込み挫折しました。あの町にどれだけの戦略的価値があったのだろうか。仮りにここを攻略できたとして、後の補給をどうしようとしていたのか。その先、マッカーサーを追ってシドニーまで攻め込むつもりだったのだろうか。狂気の沙汰としか思えないのです。数えるのも恐ろしいほどおびただしい多くの犠牲を、対戦国同士の兵士、国民に、アジア、太平洋各地の関係もない各地の住民に強い、計上出来ないほどの大きな損害を与えた戦争でした。究極的にあの戦争にどんな意味があったのでしょうか。そんな中にいて、私は不思議と強い運に恵まれ、無事帰郷、今日まで六十年近く、人生をまっとうすることができました。あの戦争で無意に亡くなった何百万人の命からの賜物として、私に今の生が与えられ、これを書いていると思うのです。
鎮魂
戦争で亡くなった人の魂を慰め、鎮め、弔うと言う意味です。昨年は四年間の私的生活を書きましたが、今回は憑かれたように、身近にあった戦場を書こうと筆を起こしました。当初は容易に意は尽くせず、筆が進みませんでした。忍んで書いている内に、何故かそれに詳しい知人ができ、文献、資料が次々飛び込んで来ました。無念の思いで逝かれた多くの御霊が、私を呼び、後押ししてくれているのではと思ったほどです。国際法の思想をかなぐり捨てた、戦争統帥者達の無知、尊大、傲慢さは、自国兵士の降伏を許さず、安易に自死を求めました。そんな精神は、ニューギニア戦線に口減らしに等しい自滅的作戦を横行させ、この世の地獄を生みました。対峙国の俘虜には侮蔑感で対応することしかなかった私達・・そんな前時代的人間になっていたのです。
あの戦争の片鱗にほんの少し近付けたか、「鎮魂」と言うことになっただろうか、一応の安堵を覚えています。
太平洋島嶼行きこそが望みでした
私は少年時代から、南の島々に憧れを持っておりました。
叔母八十八歳の手記を読んで
「この島こそが私の行きたいと願っていた処だった」と気付きました。
戦争さえ起きなかったら、きっと南洋のどこかの島に行っていました。
叔父のように素敵な彼女を故郷に持ってはいませんでした。
森小辯さんの後にならい、行った島で何か役立つ人間になって、島住民の一人に加えて貰っていたかも知れません。
主人公は南洋群島(太平洋島嶼)島民達でした。
太平洋戦争は、日米国他太平洋地域関係国の兵士、住民に三十万人以上の犠牲をもたらして終結しました。日本人、米国人等は戦場になった各地に慰霊碑を立て、記憶を遺そうとしています。あの時期、戦争を遂行するため、戦争当事国双方は太平洋島嶼各地に数知れない飛行場が設けました。その多くは島住民の交通手段として活用されています。何百隻も沈められた艦船があります。島近くの海底に今なおそのままに遺り、魚礁となってダイビング観光資源となっている処も少なくありません。旧南洋群島では、敗戦とともに居住していた日本人は立ち去り、何十年ぶりに旧島民の世界が戻って来ました。その中に多くの日系児達が包含されていたのです。英国、豪州、アメリカの統治下にあった島々は思い思いに、政治的独立を果たしました。戦争の犠牲者三十余万人が真に遺したかったものは、こんな平和で平等、心豊かな島社会だったのではないでしょうか。
むすび
目をつぶると、南の島の青い海、白い波、青い空、濃い緑の木々に感動した日々が想い浮かびます。はつらつと大きな瞳の笑顔を見せてくれる人逹がいます。人々は日々を助け合って暮らしているのです。南の島々は今も私の憧れ、これからも島に長く美しさが残り、人々の幸せが続くことをひたすら願っています。
いつも大変な我が侭を許して下さる「小さな炎」の皆様に、心からお詫びと感謝を申し上げます。
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